2004年アメリカ赴任

何となく次は自分かな?と思っていましたが、アメリカ赴任を打診されました。当時は独身者は海外赴任はダメ、という暗黙ルールがあったので独身だった私はある意味特例でした。

ま、色々あったんですが・・・(笑)。

赴任の半年くらい前に出張しましたが、その時が初めてのアメリカ。その時はお客さんとのディナーでステーキレストランへ行き、何も分からず大盛の感覚で一番大きかった24オンスを注文。これを見ていたお客さんが『Are you crazy?』と言っていたのを覚えています(笑)。食べましたが(笑)。大体、初めてアメリカ出張するとこのような洗礼を受けさせられます。

いざ赴任。ウィスコンシン州。

赴任先はウィスコンシン州のミルウォーキーという街。ウィスコンシン州では一番大きい街でハーレーダビットソン、ミルウォーキーブルワーズなどで多少は日本人にも馴染みがありますかね。ブルワーズには江夏投手、野茂投手、青木選手等が所属していたことがあります。

日本人居住者の多いイリノイ州、シカゴまでは車で1.5時間ほど。最初は毎週末に行って日本関連物を買い物したり、日本食を食べたり、シカゴのゴルフコンペに参加したり、Barのようなところで呑んだり、と楽しんでいました。ゴルフもこの時に覚えましたね~。

35℉です。0℃~1℃くらい?お客さんのオフィス

仕事はお客さんの会社に常駐する形です。アメリカの会社なので日本人は私以外ほぼゼロ。そこにオフィスを間借りして常駐し、お客さん対応として営業、技術サポート、品質対応、日本から来る出張者のアポ取り、段取り等をしていました。もともと技術職で、更に入社7年目?8年目?あたりで係長に昇格してすぐ、くらいだったかな?営業や品質サポートなんて、何すか、それ?という感じだったし、出張者のアポ取り、段取りも全く経験なく。でも臆せずに現地の人に体当たりしてやっていたら何とかなりました。それほど大きな失敗はしていないと思います、多分。

ミルウォーキー博物館

現地ではファーストネームで呼び合うのでMr.〇〇なんて呼びません。ファーストネームで呼ぶので普通に年配のお客さんにもDan、John、Billとかって呼び捨てにしていました(笑)。日本人の名前は呼びにくいので、現地ではRoss、というニックネームを付けてもらい、Hey、Rossとか呼ばれていました。これは今でも使ってます(笑)。自分の名前では普通だとHiro、になるのですが、良く出張で来られる部長がHiroだったのでそれを避けるのと、当時TwentyFourというドラマの主役がRossだったのでHiroshi、hiRoshi、hiRoss…、Rossと変化していった感じです。

仕事は順調、というよりもそもそもルーチンワークというのがなく、日々突発対応なのでとにかく応用を利かせて、アドリブ勝負です。もちろん、営業、品質、秘書業務なんてものを経験なかったので現地で勉強しながら即実践。

冬のミシガン湖

ま、仕事は体当たりでなんとかなるんですが、日常生活の方がもっと大変でした。冬は普通にマイナス20℃、買い物に行けば教科書には出てこないような英語の連発。クレームっぽいこと言おうにも自分の言いたいことを伝えられない、喧嘩(ではないですが)みたいになったらこちらの主張をできない、などなど。そんなこんなで改めて営業を勉強しました。シカゴの日本人向け本屋さんで中学生か高校生向けの文法の参考書を買って関係代名詞を覚えたり、現地の外国人向け英語スクールに入ったりして、少しずつですが自分の言いたいことを英語で言えて、通じるようになってきました。考え方を理解するためにアメリカの教育制度や宗教なんかも勉強しました。

クリーブランドへ引っ越し

クリーブランドでの住まい

1年半ほどミルウォーキーに住んだ後、オハイオ州のクリーブランドに引っ越し。こちらでも基本やることは変わりません。お客さんのクリーブランド拠点に常駐します。ただ、工場が近いので品質対応の頻度は増えました(笑)。実は自分が設計した製品はマレーシアの工場で作っていたのであまり製造現場を見たことがなかったんですね。出張で行った時くらいです。それを類似製品の製造工程を見れたことが非常に大きな経験、知識になりました。日本の工場、東南アジアの工場(仕入先含む)、アメリカの工場等を見れたわけですから。お客さんの会社は北米1位、世界2位のFA業界のメーカーですが、当時は意外とまだそれほど進んだものではなかった気がします(笑)。

仕事、生活に慣れてきて自分のペースを作れるようになったら積極的に旅行に行きました。特に西海岸のロスやサンフランシスコには結構行きました。地球の歩き方に出ている主要都市には大体行ったんじゃないかな。あとはヨーロッパなど。南米に行けなかったのはちょっと残念でした。仕事で飛行機移動が多いので飛行機のマイル、ホテル、レンタカーのポイントが良くたまってStatusも良かったのでそれをプライベートに活用させてもらっていました(笑)。

敢えて英語の通じないパリへ一人で行きました。空港からバス、市内は地下鉄を普通に使いましたが、英語通じなくても何とかなるものです。その英語も怪しいのですが(笑)。というか、日本語で話しかけられたり(笑)。

今振り返って思うと、ほんと、怖いもの知らずですね。この頃の気持ちを今でも持っていたいものですが、今は心配だぁ、リスクが・・・、な世の中でなかなかこんなことできないですね。

エッフェル塔とセーヌ川

4年間駐在して帰任

2008年の4月に帰任しました。母親が引っ越しの手伝いに来てくれたので帰りにサンフランシスコによって。

成田着の飛行機が遅れて名古屋行きの国内線にコネクションできず、成田界隈のビジネスホテルで一泊してから名古屋へ。

今にしても思えばあっという間だったし、良い経験もつらい経験も30代前半に出来たのが今の自分の礎になっていると思います。

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