97年4月、めでたく会社の入社式を終えて社会人になりました。愛知県にある大手自動車部品メーカー、デンソーです。同期入社は何人ですかね?大卒等の総合職で400人以上。あとは事務職の方や製造現場等で働かれるであろう技能職の方もいらっしゃいます。全部で1000人近くいたかもしれません。

新入社員研修、工場実習を終えて配属されたのは新事業のFA(Factory Automation)分野の事業部。ちなみに工場実習中に人事部の方と配属面談があって色々希望を聞かれたので、『本社勤務、カーナビ部門、ソフトウェア関連、英語は苦手なので英語不要の部署』など色々希望を伝えました。

まず、FA事業関連の部署は希望していたカーナビ部門はおろか、車にも関連しない部署。車好きでこの会社に入ったのに(笑)。仕事の内容を聞くと電子機器のハードウェア設計、納入先はアメリカの会社でその分野で世界2位の規模の会社。勤務地は本社でしたがそれ以外はすべて希望と反する配属先でした・・・(笑)。

電子機器ハードウェアの設計は具体的には電源製品の設計。電源、という言葉は聞いたことありますし、電気回路、電子回路も学生時代に習ったことはあります。が、ほぼ知らないことばかり。同じ仕事をする先輩はもう3年のキャリアのある年下の人。まぁ、年下というのは私は気にしないのですが、その先輩は私が年上、大学院卒(先輩は高卒)だったので何か気を使いながら、これくらいのこと分かるだろう?(実際には分からないんですが)という空気だったのを覚えています。

ま、自動車関連の部署ではない、ということもあって、後にこの事業部がデンソーウェーブ、として分社化しました。バーコード、QRコード、産業用ロボット、制御機器等、非自動車分野の事業部をまとめた会社ですね。私はそこに出向する、という立場になります。何年からだったか覚えていませんが(笑)。

納入先がアメリアなだけでなく、主な仕入れ先がシンガポールのメーカーさんで製造がマレーシア。基本のやり取り(当時はFaxでした)はほぼ全て英語。ついていくどころか取り合えずキャッチアップするのに必死でした。何も考えず本屋行って英語の参考書買ったり、電気回路の本買ったり、週末に自己啓発の研修で英語、電気回路などに諸々時間、お金を使いました。まぁ、あれはあれで楽しかったですね。当時はまだ勤怠管理がずさん、というか適当だったので普通に無償残業したり週末会社来て実験したりしていました。というか、残業規制もなかったかなぁ。まぁ、仕事で成果を出せるほどの能力がないから、キャッチアップするために仕事を使って自己学習している、なんて感じでした。今の時代では許されないし、自分が管理職やっているときは部下に絶対やらせませんでしたが・・・。そういう意味で今の若い人は大変なのかなぁ、スキルを身に着けるには。体力や健康には良いと思いますが。

本当、当時はコンデンサーやダイオードに何種類もあるなんて知らなかったし、電解コンデンサーに逆電圧をかけて実験室に電解液をぶちまけたこともあります(笑)。

配属されて1年経った頃、私のミスなのですが、試作のスケジュールが間に合わないことが発覚し、それを少しでも取り返すためにマレーシアで現地での段取り、試作品の出荷前評価を現地でやることによって試作の遅れを全体に波及させないため、という名目の海外出張に行くことになりました。入社して1年での海外出張はもしかしたら同期で一番かもしれません(笑)。

当時は東南アジアへの出張でもビジネスクラス、名古屋からの直行便ではなくペナン経由(初海外で現地での乗り継ぎなんてできるのか?)など、まさしく『初めてのお使い』状態。初めて会う現地の人、読み書きはななんとか、だけど話す聞くはまだまだな英語、初めての現地の食事。すべてが新鮮で大きなショック(良い意味で)を受けたことを覚えています。よく考えたら当時の上司も良く入社1年の若造をこんな重要なミッションのために海外出張させたな、と。日本からは上司や先輩が、現地ではローカル社員や駐在員、仕入先の方々から多大なサポートを受けて(当時はあまり認識できていませんでしたが)無事完了。全てが予定通り、というわけにはいきませんでしたが(笑)。

帰りは夜中の1時頃に現地のクアラルンプール空港を出発。無事終わった安心感と現地の方々からしていただいた送別会での心地よい酔いでラウンジで寝てしまいました。空港内放送で呼び出されていたようですが、気づかず。ラウンジのお姉さんが起こしに来てくれました。ビジネスクラスでなければラウンジに入っておらず、普通に寝過ごしていたと思います。

帰りは直行便なので朝名古屋空港に到着。当時はまだ中部国際空港ではなく、今の小牧空港ですが両親が迎えに来てくれていました。帰国して最初に食べたのはお茶漬け。こんなに美味しく感じたお茶漬けは後にも先にもありません(笑)。当

一週間ほどでしたがこの時の海外出張での経験、心持が後の自分の支えになっていることも間違いありません。あんな新鮮な経験はもうできないでしょうね・・・。帰国後はマレーシアやシンガポール現地の方々とのコミュニケーションも取りやすくなり、(当時の自分にとっての)修羅場を潜ってきた自信で仕事も結構イケイケでやっていたと思います。

そうこうしているうちに2004年にはアメリカ出向を命じられたのでした・・・。      

続く。

関連記事

  • 関連記事
  • おすすめ記事
  • 特集記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP